私ね~~~~~~!今日誕生日なんですよ~~~~~!やった~~~~~!おめでとう我!!!!!
えっ年齢ですか!?22歳です!!!来年も22歳です!!!10年後には5歳になりますよろしくお願いします。
そんでこの日に結婚式をあげたので、結婚記念日でもあります。9周年です。す、す、すげ~~~~~!!!!人生の中で旦那と一緒に居る割合がどんどん増えていって嬉しい限りです。やっぱり好きな人と暮らす毎日は最高!!!!好きだ!!!!一生一緒にいてくれや!!!!(三木道三)
まあこんな感じでいつも通りのテンションなんですけど、これから話すことは、ずっと私の中にあるけれど、書くかどうしようか迷っていたことです。
でも、この出来事は「現在」の私にめちゃくちゃ影響を与えて、今の私を形作っているひとつのできごとなので、やっぱり何かに残しておきたいなぁと思ったので、書きます。
これは、私が初めての子どもを稽留流産(子供が育たずに流産してしまう)した話です。
あんまり明るくない上に、ショッキングな表現なんかもあるかもしれませんので、見たくない方はそっと閉じて下さいませ。
あと、ただの私の独り言の日記ですので、学術的あれそれとかちゃんとした体験談とか求めてる方には向きません。自己判断よろしくね。
この話を書くって、結構「ガーーーン!」って気持ちなのかな、と思ってたんですけど、今は案外普通のプレーンな気持ちで書いています。もうあの日から、6年以上も経ってしまったっていうのも大きいかもしれません。
20代前半で結婚して、1年も経てば子どもができるでしょ、ってめちゃくちゃ無責任に私は思っておりました。ところがどっこい!二年経ってもできやしねぇ!病院にも行ったけど「若いから大丈夫よ」っていう無責任なカウンセリングで終了!おいおいおい!(今より結構前の話なので、今はきっともっと親身になって話してくれるはず……)
そんで、生理が来るたびに落ち込んで、「できてなかったよぉ」って旦那に言って。そうこうしてるうちに同時期に結婚した人はぽんぽん子ども産んでたりするような日々。色々拗らせてたんですけど、そのことについてはまぁまた別で話せたらなぁと思います。
その中で、ようやく妊娠したんですよ。
「なんか生理来ないな……」「めっちゃ食欲あるな……」って思って、恐る恐る検査薬使ったらじわって線が現れて。飛び上がったしめちゃくちゃ嬉しかったしすぐに写真撮って旦那に送りましたよね。もちろん一緒に喜んで、すぐに病院に行こう!って話になりました。
病院で赤ちゃんの入っている袋を見た時のことを、まだ覚えています。
ほんとにね、ちっちゃなただのしろーい丸なんですよ。なんにも見えやしない。それなのにそれが赤ちゃんなんだぁって分かると嬉しくて、嬉しくて、お腹を何度もさすってにこにこしていました。
旦那もたくさんお腹をさすってくれてね、二人で「女の子かな、男の子かな」って話とか「あれ買わないと」「用意するものたくさんあるね」って楽しく話して。
でもね、次の健診の時に「育ってない」って言われたんですよ。確かに赤ちゃんの袋は、まだ小さいままでした。「もし次育ってなかったら、稽留流産です」とも言われました。何を言われているのか、わかりませんでした。
そこからは毎日調べて、調べて、バイトも休んでひたすら安静にしていました。きっとこれは何かの間違い、赤ちゃんはただ育つのがゆっくりなだけ。来週にはぐんと大きくなっていて、心音も見えるはず。大丈夫、大丈夫。って。
結果としては、赤ちゃんは育っていませんでした。
稽留流産ってそもそもなんなん?という話ですが、「稽留流産は、出血や腹痛などのいわゆる流産の徴候がないが、超音波検査で発育が停止(流産)していると診断されるものである。」(日本産婦人科学会)です。詳しくてググって。
まあとにかく、赤ちゃんが育っていない。これ以上育たない状態のことで、これには特に原因も理由もなく、ほとんどは母体側ではなく受精時に起きた染色体異常のせいによることが多いそうです。
だから、まあ、何も責められないんだよね。
自分も、誰かも、病院も、なにも責められなくて、ただただお腹の赤ちゃんがもう育たない、っていう事実だけが突き付けられるんですよね。
その結果に行くまでに、セカンドオピニオンで別の病院にも行ったし、つわりの症状もなかったし、体温もずるずると下がっていって、自分の体でも痛いぐらいに「もう赤ちゃんはいない」っていうのが分かっていました。
だから「きっと今日、処置(手術)の話をされるだろう」って思いながら病院に行って、診察を受けて、「大丈夫覚悟している」って100回位心の中で唱えていたのに。
「稽留流産です」って言われた瞬間、ドバッッッ、って信じられないくらいの涙が出てきました。
溢れるなんてもんじゃない。どばどばどばどば、って決壊したみたいに涙が零れて、しゃべれなくて、体を折りたたんで30秒くらい診察室で泣いて、嘘でしょ、あんなにわかってたのに、って頭の中で何度も思って、泣きました。
時間では多分、1分もなかったんじゃないかな。それでようやく顔を上げて嗚咽しながら言えた言葉が
「私、また赤ちゃん出来ますか」
でした。
なんて浅ましい、と言ってしまってから思ったけれど、それが一番心を占めていることでした。
今まだお腹の中に赤ちゃんだったものがいるのに、もう私は次の話をしている。それでも「できますよ」と淡々と伝えられて救われたし、それでもまだ救われてなくて、結局ぼたぼた泣きながら診察室を出ました。
手術の日程を決めなきゃいけないけど、泣きすぎて決められなくて、じゃあ次の診察の時に決めようねって言われて、それを付き添いに来てくれていた旦那に伝えるのも大変なくらい泣いてしまっていました。
それからの数日間、あんまり覚えていないんですがぼーっとして、ただただ旦那が優しかったのを覚えています。
紛れるからって数日経ったあとバイトにも行っていました。バイト先のほんの数人には伝えていたので「やっぱだめでした~」って言う時にはもう笑えてるくらいで、それでもなんだかぽっかりとお腹と胸に穴が空いていました。
そして、丁度次の診察の二日前。
寒い寒い冬の晩、お腹が痛くて目が覚めてトイレに駆け込みました。うんうん唸って出したけどまだ痛い。というか血が出てる。本当に痛い。
旦那を起こした時には、本当に便器が血の海で「救急車か?」と心配されました。
でも、私には確かな予感がありました。
あ、これはきっと、赤ちゃんが出ていっているんだ。って。
寒い寒い二月の日でした。
真夜中にトイレに籠って、痛くて痛くて涙が出て、寒くて震えていた時に、ふいに「ポン」という感触がしました。
その後はすうっと痛みが引いていって、一気に楽になって、ただ体に残るのはだるさとしんどさだけ。
血まみれの中で何も探せなかったけれど、ああ、きっと、いなくなったんだ、って私には痛いくらい分かりました。
あの日ほど、暗闇の中におちて、おちて、おちて、ただただ落ちて行くだけの日を、私は知りません。
私の生きている中で、一番悲しくてさびしい日でした。
診察の日に病院に行くと、赤ちゃんはいなくなっていて、お腹も綺麗になっていると言われました。手術の必要もなく、全部が終わっていました。
普通稽留流産は、手術が必要な流産です。でもそれがなくなって、私の体の負担も本当に少なくて、もういなくなった赤ちゃんに「優しいねぇ」と私は笑いました。
それからは、なんというか、めちゃくちゃ普通の日を送っていました。
普通にバイトに行き、バイトを辞めて新しい仕事を始めて、忙しくして、旦那とたまに喧嘩したり仲直りしたりしながら二人きりで過ごして、ハムスターを飼ったりして過ごして行きました。
それでもふと赤ちゃんのことを思い出して、すれ違ったベビーカーを見て「ああ!もし生まれていたらこのくらいだったのに!」と思ってずんと落ち込んでいたりしました。
突然泣くこともあったり、半狂乱になりながら旦那に当たり散らしたこともありました。
季節はいつの間にか変わって、五月になっていました。家の近くの道を歩いていると、ふぅと気持ちの良い風が通り過ぎて行きました。
その瞬間、「あ、」と立ち止まって、空を見上げました。綺麗な五月晴れの日でした。
人魚姫の童話を、みなさん知ってますかね。ディ●ニーのじゃなくて、アンデルセンが書いたほうのお話のラストです。
泡になって消えた人魚姫は、空気の娘たちと一緒に空にあげられます。
空気の娘たちに「魂」はありません。けれども、と娘たちは人魚姫に説明します。
「よい行いをすれば、やがてはそれをさずかることができるのです。
あたしたちは、暑い国へ飛んでいきます。そこでは、空気がむし暑くて、毒を持っていますから、そのために人間は死んでしまいます。ですから、そこで、あたしたちはすずしい風を送ってあげるのです。それから、空に花のかおりをふりまいて、だれもが、さっぱりした気分になるように、みんなが元気になるようにしてあげるのです。こうして、三百年のあいだ、あたしたちにできるだけの、よい行いをするようにつとめれば、死ぬことのない魂をさずかって、かぎりない人間のしあわせをもらうことができるのです。
まあ、お気の毒な人魚のお姫さま。あなたも、あたしたちと同じように、ま心をつくして、つとめていらっしゃいましたのね。ずいぶんと苦しみにお会いになったでしょうが、よくがまんしていらっしゃいました。こうして、いまは、空気の精の世界へのぼっていらっしゃったのですよ。さあ、あと三百年、よい行いをなされば、死ぬことのない魂が、あなたにもさずかりますのよ」(青空文庫 人魚姫)
それを、唐突に思い出しました。
私が昔読んでいた絵本ではその空気の娘たちは「生まれなかった子どもたち」として描かれていました。生まれなかった子どもたちが、人魚姫と一緒に風となって世界中を駆け巡るのです。
あの子は生まれなかったけれど、でも、こうやって確かにいたんだ。いるんだ。
というのが、ぴしゃんとまるで稲妻のように分かって、道端だというのにぱたぱたと泣きました。
今こうして五月の気持ちの良い風となって、私の横を駆けて行って、そうしてきっとまたいつか、私に会いに生まれに来てくれる。そう、信じることがあったっていいじゃないの。
あの日からもう六年以上経つけれど、色々なことを忘れながらも思い起こして、思い出しています。寒くて寒くてさびしくて悲しかった冬の日のこと。全て分かった五月の晴れた日のこと。
今は不思議なことに、二人もの子どもに恵まれて、熱くて熱くてたまらない熱の固まりに挟まれて寝ています。
あの冬の日を超えているからこそ、不思議で不思議で、嬉しくて、毎日「大好きだよ」と言って抱きしめています。いやまあ喧嘩もするけど……「もう!!!!!!」って言ってることの方が多いけど……。
でも、あの日のことを私は忘れることができません。
あの悲しくてさびしい日の経験は、確かに私が今色々書いている深い深い所に根っこを張っています。
自分のからだのなかから、いのちが確かに失われていくという経験は、本当に、ものすごい苛烈で強烈なものでした。
思い出すだけで冷え冷えして、悲しくて胸がきゅうっとなって、それでも確かにあれは私の大事な記憶の一部なのだ、と静かな心持になります。
それでもね~~~~そんな体験を、世の女性の10人に1人は味わっているんですよ。もっと多いかもしれない。すごく身近で、いつ誰が味わうかわからない、そんなすぐそばにある経験なんですよね。
だから、これはただの日記です。それ以上でもそれ以下でもないので、そっか~~~~って感じで読み流して下さい。
は~~~~~~~~ずっと、この出来事を文字にしたいと思っていたので、思い切ってできて良かったです。
ここまで長い文章を読んで頂きありがとうございました!今年も色々書くぞ~~~~!